ALL #46

ALL #45 - 日記


僕はこの病院に転院してきた日に、足の付け根から大静脈にカテーテルを入れられた。そして約1ヶ月後、寛解導入に成功し地固め療法に入る前、鎖骨の下からカテーテルを入れ直し、足の付け根のカテーテルを抜いた。それ以来4か月近く、鎖骨の下に管が入っている状態で過ごしてきた。しかし地固め療法3回目の終盤から、その挿入部がとても痛くなってきた。


もちろん、普通に体に管が突き刺さっているわけだから、普段から全然痛くないわけではないんだけど、24時間ずっとそういう状態だと、なんとか耐えられるくらいの感覚で過ごせる。非常に嫌な状態ではあるが、そうするしかない状況ではなんとか耐えられる。だけどこの頃、普通に過ごすのも苦痛なくらいに挿入部が気になってきたのだ。


挿入部は、大静脈の中へつながるカテーテルの入り口なわけだけど、当然外れては困るので厳重に固定されている。挿入しているその部分とその他2点の合計3点が固定されているのだが、その固定の仕方というのは、糸で皮膚に縫い付けるという単純かつ酷い固定の仕方である。


もちろんその縫い付け部分にテンションがかかるととても痛いので、テープも使うし、少し余せて着ている服にも固定したりする。でもやっぱりなんだかんだでテンションはかかり、皮膚が引っ張られてしまう。縫い付け部分は赤く腫れ、数日ごとに炎症を抑える薬を塗ってもらわなければならない。その部分も許容できる範囲を超えて赤く腫れていた。


このカテーテルの寿命は大体このくらいらしく、「入れ直した方がいいですね。」と主治医は言ったけど、それはそんなに気軽にできる話ではない。僕は少々の痛みは我慢するけど、最終的に体から二度と消えない傷が残ることがとても嫌だ。既に僕の体には、カテーテルの挿入だけで、右足の付け根と右鎖骨の下に3つずつの跡がある。入れ直すとなると、今度は左鎖骨の下になるらしい。右胸にも左胸にも傷…なんとかそれは避けたい。


そうこうしてるうちに、僕はとうとう口を開けても痛みが走るようになってしまった。入れ直しは嫌なので、少しでも痛みを和らげるために試行錯誤した。どうすればテンションがかからないのか絵を描いて考えたり、看護師さんとも念入りに相談し、挿入部のガーゼ交換には長い時間を割いた。


しかし努力は実らなかった。とうとう固定していた糸の一つが切れてしまったのだ。


再度縫い付ける手もあるが、治療中ではないし、全体的にもう限界だったのでカテーテル自体を抜くことになった。この4ヵ月ずっと一緒だったカテーテルはいとも簡単に抜かれ、遠目にそれは冬虫夏草のように見えた。結構長い物体が血管に入っていたのだなと思った。


この日は外泊することになっていたので、止血が終わるととりあえずその日は帰ることにした。カテーテルが取れたということもあり、初めて自転車に乗って帰った。久しぶりに管の入ってない体は身軽で、久々の自転車は風が気持ち良かった。


しかし、次の治療からどうするかは棚上げになっている。どうしたものか…。

ALL #45

ALL #44 - 日記


季節は夏になっていた。


僕はあまり積極的に他の患者と交流していたつもりはなかったけど、いつの間にかベテラン患者になってしまったこともあって、いろんな人と接することにはなる。


あるときは、たまたま目の前で患者のおじいさんが転んで倒れてしまった。僕は駆け寄って、とりあえずそのおじいさんを持ち上げて車椅子に乗せようとしたのだが、昔の感覚でおじいさんを持とうとしたら全く持ち上がらず、自分の力のなさに愕然としつつ看護師を呼びに行くはめになった。早く見つけたのでおじいさんが無事なのはよかったが、筋トレを禁止された自分の力の衰えを感じてしまった。


あるときは、数週間の入院で来た人にとても腹を立てた。消化器系の癌のため食事がうまくとれないその患者は流動食しか食べられないのだが、その流動食のやわらかさとか味、さらには裏ごしの仕方や、些細な手違いまでとにかく文句を言っていた。その人は気が小さくて細かいことまで気にするので用事のないときでもとにかく話が長く、その人につかまると看護師さんたちは大変な目にあう。重労働で疲れている看護師さんたち。もちろん必要な仕事はしてもらわないといけないけど、看護師さんが文句を言えないのをいいことに、自分のところに来た看護師さんに20分も30分も相手をさせたりして、同じ部屋の患者としてとても気分が悪かった。


そんな風にいろんな患者がいるけど、最近、久々に新しく白血病の患者が同じ部屋に入って来た。白血病の患者は他の病気と違って入院期間が長いので長いおつきあいになる。その人は60代後半くらいの男性だったけど、おじいさんという感じではなく、しっかりしていて着ている服も年の割には派手だった。物静かだけど自分の意見をはっきり持っている感じの好印象の人だった。


だけど僕はその人となかなか話をすることができなかった。


そのうち何かの機会で話をすることになるだろうと思っていたけど、なかなかその機会に恵まれず、同じ部屋なのになんだか妙な感じになっていた。特別仲良くなりたいというわけではないけど、お互いリラックスして同じ部屋で過ごせるくらいにはなりたい。


そう思いつつ過ごしていたある夜、近くで大きな祭があった。当然僕らは入院しているので祭には行けないが、その模様はテレビで中継されていた。テレビとは言え祭の雰囲気は味わうことができ、前からずっと同じ部屋のおじさんは気分よくテレビに合わせて演歌を歌っていた。


僕も気分よく中継をみていたのだが、その祭のクライマックスに花火が上がった瞬間、窓の外にも小さく花火が上がるのが見えた。僕は思わず嬉しくなって部屋の人に教えてあげた。そしてそのときに、新しく入って来た人にも話しかけることができた。


花火は窓側の人しか見えないから、僕はその人を窓側に呼んで、そのとき部屋にいた3人でしばし花火を眺めた。みんなとっても喜んで、花火を見ながらいろんな話ができた。楽しい思い出になる夜だった。


その後は部屋の雰囲気も良くなったような気がした。まあ頑張って白血病治しましょう!って感じで。

ALL #44

ALL #43 - 日記


入院当初にダウノマイシンを投与したしばらく後に脱毛が起こったが、それ以来脱毛はなかった。そのときからずっと髪の毛はまばらだったけど、最近少し伸び始めたねと言われていたところだった。系統としても同じアントラサイクリン系の薬剤なので、ドキソルビシンが原因だと思う。


これによって、まばらだった髪がスキンヘッドに近くなった。この時点で髪自体は短かったので、脱毛でそんなに外見が変わるわけでもなく、そういう意味でのショックは少ないけど、3ヵ月ほど先に退院の光が見えている中だったので、帽子をかぶらずに生活できる日がまただいぶ先に延びてしまったのかと思うととても残念だった。枕についた髪は短かくて取りにくかったので、粘着テープのローラーで取った。


地固め療法3回目の後半、キロサイドの5日連続投与の2週目が始まる。


もうそろそろ看護師さんが来るころだなと思って待っていると、担当の看護師さんがやってきたのだが、その看護師さんが発した言葉は意外なものだった。


「今日中止やって。」


驚いて理由を聞くと、白血球の数が500/μLに減っており、今週5連投するのは無理だと主治医が判断したということだった。治療前に説明は聞いていたものの、これは残念なことだった。これまでいろんな副作用は出ても、予定の治療を中止したことは一度もなかったからだ。


そもそもこの地固め療法3回目というのは少し無理があるスケジュールになっていて、骨髄抑制のまだ終わりそうもないタイミングで後半の投与を始める点に疑問を感じていた。主治医の先生とも、「これをちゃんと最後まで貫徹できる人は少ないんじゃないですか?」と話をしたりした。


まあ予定の治療ができないからと言ってすぐさま病気の症状が出るわけでもないし、この治療スケジュール自体も厳密に検証されたものでないと言えばない。「キロサイドの投与を1週目まで続けられただけでも効果はあると思いますよ。」とも言われたのでよしとすることにした。


その後しばらくはロイケリンなどの他の薬も止めて、グランを注射しつつ骨髄抑制が治まるのを待つことになった。そして、事前の説明ではしばらく治療をストップするという話を聞いていたのだが、結局そのまま中止になり、地固め療法3回目自体が終了ということになった。


その後は骨髄抑制のために熱が出て抗生物質を投与したり、血小板などが減って輸血したりという毎度のイベントはあったものの、なんとか無事白血球数も回復していった。

ALL #43

ALL #42 - 日記


地固め療法3回目の前半が終わった。


この地固め療法3回目は長くて、1ヶ月かかってようやく前半が終わった。結局、入院してすぐに投与して嘔吐したダウノマイシンを思い出す赤い液体のドキソルビシンを3週に分けて計3回投与したけど、嘔吐することはなかった。


ただやはり白血球は減っていたので、後半を始めるにあたり主治医から説明があった。


プロトコル通り進めますが、白血球が現時点で少ないので途中で白血球数がゼロになるかもしれません。治療は続けますが、ゼロになったらいったん治療を中断します。」


確かに今までは治療が終わってから骨髄抑制が来て、それにより減った白血球をグランの注射で少しでも増やして骨髄抑制がおさまるのを待ってたわけだけど、治療中に白血球が少なくなったことはない。大丈夫なんだろうか。だって白血球ゼロってことは、体の防御システムがないってこと。空気中にはいろんな菌が浮遊しているし、裸でライオンの檻に入るような気分がするけど…。


なんにしろ後半の治療を始めることになったが、それもキロサイドを5日連続、2週続けて投与するというものだった。そういうのも初めて。まあなるようになるか。


そして後半の最初には、またもや髄液注射があった。もう何回目になるだろうか。それでもやっぱり嫌だけど。


今回はちょっとしたハプニングがあって、いつものようにエビのように背中を丸めてスタンバイしたとき、先生が薬を忘れたことが判明。しばし中断になった。その間しばらく看護師さんたちと雑談をしてたのだが、初めて髄液注射に使う器具を見せてもらった。いつも背中を向けてるから全くわからなかったけど、これが背中に突き刺さるとはとんでもないと思うと同時に、これを背中に突き刺す先生も大変だなと思った。


程なく先生が薬を持って戻ってきて、処置が行われた。髄液注射はいつもと同じくらいの感じの痛さで終了した。


その後もキロサイドの投与は毎日続いたが、「キロサイド連投してるのに吐き気なしってすごいですね。」と主治医が言うほど、僕は元気に過ごした。もちろん全然吐き気がないわけではないけど、本当に苦しい時に比べるとはるかに楽だった。


だけどここにきて、ドキソルビシンの恐ろしさを知ることになる。このところ、枕の回りに髪の毛がたくさんついていることに気がついたのだ。

ALL #42

ALL #41 - 日記


長期の入院。午後の陽ざしの中、ぼーっと病室の窓の外に広がる河の堤防を見ていると、時が止まったような錯覚に陥る。人が歩いているのが見える。ウインドサーフィンを楽しんでいる人たちが見える。鳥が上昇気流に乗って空高く舞い上がるのが見える。


でも時は止まってなんかいない。


僕が入院生活に入った直後、元気な赤ちゃんを産んだ人がいた。僕は産休に入るその人を、「頑張って」と送り出したのを覚えている。僕の知らないところでつらいこともたくさんあったろうけど、無事大仕事をやってのけた。


結婚した人もいた。僕はその人の披露宴に行く予定だったけど、結局行けなかった。入院してからも、ギリギリまで可能性は残したけど、やっぱり出席するのは無理だった。後日、とても幸せそうな写真を見せてもらった。


結婚を決めた人もいた。とても大きな決断。きっといろんなことを乗り越えて、幸せをつかむことができたんだと思う。


そして僕が一番時の流れを感じたのは、同じ会社の人が辞めることになったときだった。


彼が入って来た時、はたして仲良くなれるのか心配だったけど、さして何もできなかった僕に対して彼はとてもよくしてくれた。よく飯を食べに行ったし、入院してからも頻繁に見舞いに来てくれた。なんとなく、ずっと彼がいるような気がしていたし、職場に復帰するときにはもちろん彼がそこにいる気がしていたけど、それは僕の時間の止まった頭の中での想像にすぎなかった。


彼はある夜、それを伝えてくれた。僕は転職先が決まったことを祝福した後、電話を切り、消灯時間を過ぎて蛍光灯が消された廊下を点滴棒を引いて暗い病室に静かに戻った。


次の日は抗がん剤の投与が予定されていたので早く眠るべきだったけど、でもその夜はしばらく夜の外の景色を見た。巡回の看護師さんに早く寝て下さいねと言われても。


何を考えていたのかははっきり覚えていない。だけど、この一枚の窓を隔てたこちら側と向こう側で、物事の進むスピードが全然違うことを改めて痛感していたことは間違いない。忙しく、立ち止まることのない毎日を過ごしている人たち。次々と形を変えていく見えない大きな何か。僕の知っている外の世界はもうないのかもしれない。僕が戻ろうとしている場所はもう存在しないのかもしれない。僕はやっぱりとんでもないところへ来てしまったのか。夜の景色は何も答えない。


でも僕は、変かもしれないけど、予想外のことが起きるのが嫌いじゃない。もちろん、予想外に良いことの方が嬉しいけど、予想外のことが好きなタイプか嫌いなタイプかと言われると、たぶん好きな方だと思う。だから僕はこの予想外の状況に困ってはいるが、自分が他の人とは違った環境に置かれていることに興味津々でもある。


ま、こっちはこっちでやっていくしかないか。


ふと時計を見ると、消灯時間を3時間も過ぎていた。僕はベッドにもぐり込み、眠りについた。

ALL #41

ALL #40 - 日記


以前より外泊している日は多くなったが、それでもやっぱり病院にいる時間は長い。病院にいるときは自由がないし暇なのは仕方ないけれど、理不尽に不快な思いをして過ごすことは我慢できない。


僕はあるとき、とても耳障りな音がどこからか聞こえてくることに気がついた。それは僕の大嫌いなラジオの音で、いつもふと気づくとその音が聞こえていた。


病院の朝。起床時間は6時だけど、僕は大体朝食の運ばれてくる8時くらいまで寝ていた。そして朝食に前後してトイレに行き、その後は清掃の時間がある。そして午前中は、僕がほとんど唯一テレビで見ていたメジャーリーグの中継があったので、イヤホンをしてそれを見ていることが多かった。最初の頃は、そのメジャーリーグの試合が終わってイヤホンを外したときにラジオの音に気づくのがパターンだった。


しかしラジオの音は、もっと早い時間から鳴っているようだった。たまたま朝早く目覚めたとき、なんと朝6時台からラジオの音が聞こえてきたのだ。


いったん気になると、どんどん深みにはまる。ラジオの音にとても敏感になり、少しでもその音が聞こえてくると反応し、その音が流れている間どんどんどんどんイライラがつのる。音がするのはどうやら向かいの部屋らしかったが、4人部屋であの音が鳴らされていることが理解できなかった。違う部屋にいる僕でさえイライラするのに同部屋の患者たちはなんとも思わないのだろうか。


僕は我慢できないのでいっそのことその部屋に自ら入って抗議しようかと考えたけど、僕はかなりイラついていたので、激しく口論してしまいそうな気がした。でも患者同士のトラブルがその後も尾を引くのは望ましくない。考えた結果、そもそも病室で大きな音を鳴らすことは禁止されているのだからそれを徹底するのは病院側だと判断し、看護師に注意してもらうようお願いした。


看護師は「わかりました」と言ったので、僕はやれやれと思って安心したのだが、次の日も、また次の日もラジオの音は鳴った。


どうやら看護師も言いづらかったらしく、ちゃんと注意できていないような感じだった。言いづらいのはよくわかるが、ルールがあるんだからそれを守らない人は注意しなければならない。そう思った僕は、今度は看護師に対して相当イラつきながら「ちゃんと言ってくれましたか?」と念を押した。看護師は非常に嫌そうな顔をしていた。


でも看護師はちゃんと注意したらしく、ようやくラジオの音がこちらの部屋まで聞こえてくることはなくなった。


しかしその後驚くべきことが起こった。ラジオの鳴っていた部屋の4人のうち3人が、同時に退院したのだ。この部屋にいる人たちは長期入院の人たちばかりだったのでまさか3人同時に、しかもラジオの問題が解決した直後に退院するなんて思ってもみなかった。残った1人はラジオを聞く人ではなかったし…。それがわかっていたら、それなりのやり方があったのに…。


どいうことで、結局しつこく注意を頼んだ看護師さんとの間のわだかまりだけが残り、その看護師さんとの会話は、その後しばらくとても乾いたものとなるのだった。

ALL #40

ALL #39 - 日記


今回の地固め療法3回目は、なかなか外泊できないことを覚悟していたけど、思いがけず何度も外泊することができた。


僕が外泊したがっているのは確かだった。採血の予定がなくても、外泊をしたいがためにわざわざ採血を懇願したりすることもあった。採血することにはもうほとんど抵抗はなかった。


まず、なんと治療を始めた週の週末に外泊を許可してもらえた。これは要するに骨髄抑制が起こる前の外泊ということだ。


更に2週目の週末にも外泊が許された。今までは骨髄抑制が終わって、次の治療に入る前のリフレッシュという感じで外泊していたので安心感もあったけど、もうすぐ白血球がドンと下がることがわかっている中での外泊は、嬉しいけど本当に大丈夫だろうかという不安もあった。


ときには、血液検査の結果を見て、白血球の数値が低すぎるので「今週は外泊できないな…」と思って、食事が足りない分を補うため悲しくカップ焼きそばを作っていたら、いつも来てくれる先生が「外泊してもいいですよ」と言ってくれたこともあった。そんなときは、カップ焼きそばを全部捨てて、町の寿司屋に直行した。男の部長の主治医の先生ならダメと言いそうな場合でも、なるべく外泊させてくれた。


これだけ外泊が多くなると、生活も変わってくる。家は少しずつ所帯じみてくるし、長い間水道を使わないなんてこともなくなるので家に帰っても水回りは臭くない。


食事を家でとることも多くなるので、その心配をするようにもなる。さすがに食材を買ってきて料理を作るなんてことまではできないので外に食べに行くことが増えるが、同じ店ばかりでは飽きてしまう。もともと一人で外食することはあまりなかったので、自分の家の周りのことをほとんど知らないことに気づく。従って知らない店に入ってみることも多くなった。


中には、黄色くなった古いご飯を出してくるような流行ってない中華料理屋もあったし、料理が辛すぎて汗だくで食べる羽目になることもあった。古いものを食べて大丈夫かと思いながらも食べたし、汗だくになっても髪が抜けてるから帽子を脱げなくて頭が蒸れ蒸れになった。


外泊から病院に戻る前に外で何かを買って帰り、病院食を食べずにそれを食べることもあった。あるときは病院の近くの店でチャーハンを買って帰ったけど、食べてみるとママレモンのような味がしたこともあった。それでも病院食よりはおいしいので全部食べた。


治療や白血球の減少で病院にいるときは、鰹節ごはんを食べることが多くなった。鰹節は保存がきくし、醤油をかけると結構おいしい。少なくとも病院食よりはおいしい。毎日はきついけど、それでも食べた。


そんな風に、僕の入院生活は当初に比べて少しはストレスの少ないものに変わっていた。