教育

大分県の教員採用汚職問題。教育ってなんでしょうか。


日本国憲法第二十六条
 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。


世の中の決まりというのは必要だから作られるものですが、当然人間が決めるものなので、ときには一部の人間にとって有利なように作られたりして、納得のいかないものもあります。しかし日本はこの教育というものに関して、結構いい決まりを持ってるように思います。


数年前の国連総会において、復興を目指すアフガニスタンカルザイ大統領が歴史的な演説をしたのを覚えていますか。アフガニスタンは、9.11の同時多発テロ事件の報復としてアメリカの侵攻でタリバン政権が崩壊し、新たな一歩を踏み出そうとしていました。


カルザイ大統領は国際社会の支援を求めるための時間を与えられました。彼はアフガニスタンの窮状を訴え、熱く熱くその思いを全世界に向かって発しました。その言葉の一つ一つが人々の心を捉え、会場も物音一つ立てずにその瞳を見つめていました。彼の演説は与えられた時間を過ぎても続きましたが、誰もそれを止めようとはしませんでした。そしてその演説の中でも、とりわけ僕の心を捉えた言葉がありました。それは確かこのような内容でした。


「食糧や住宅も必要だけれど、私たちには教育が必要だ。」


要するに、一時的に物資の援助を受けたとしても、それはすぐになくなってしまう。自分たちには、自分たちの足で立って歩く力が必要なんだということでした。


教育が受けられる喜び。日本人の多くは忘れているか、あるいは意識したこともないかもしれません。子供の頃、学校で勉強したくなかったり、宿題をするのが嫌だったということばかりを思い出すのは僕も同じです。もちろん、受けたい教育と受けたくない教育はあるかもしれませんが、もし教育を受けられなかったらと思うとゾッとしませんか?大きくなった今でも、何かをしたいと思ったとき、勉強を始めなければ何もできないと感じるでしょう?


そしてこの問題を考えるとき、僕はいつも母親の言葉を思い出します。僕の母親は、母親としてはいいと思いますが、特に人格者というわけでもなく、何かに特別秀でているわけでもなく、平凡と言えば平凡な人です。でも教育に関する考え方には一目置くところがあります。母親はあるとき言いました。


「うちは母子家庭で、お金もないしコネもない。世の中は信用できないものがたくさんあるけど、勉強だけは裏切らない。一生懸命努力してコツコツ勉強を頑張ったら、必ずその分帰ってくるから、勉強だけは頑張りなさい」と。


僕はその意味をどれくらいわかっていたか覚えていませんが、あるときからしっかり勉強するようになりました。父親が死んで、社宅を出なくてはならなくなったとき、母親が選んだ新しい住処は、子供が大きくなったとき、家から大学に通える場所でした。そして僕は家から通える大学に合格しました。僕は、母親の言ったことは本当なんだなと思いました。


僕がその後、自分が受けた教育をどの程度生かせているかはわかりませんが、教育というのはその人が世の中の様々な場所や局面において自分の力を発揮するための土台です。それは公正でなければならず、とても尊いものです。それを汚したのが今回の事件。不合格にされてしまった人だけでなく、そういった大人たちのもとで育っていく子供たちがたくさんいます。その子供たちが大人になるのです。子供というのはバカではありません。大人のやることをよく見ています。


教育を受ける権利と、教育を受けさせる義務。この意味を理解していない人が多いことが、教育におけるそもそもの問題かもしれません。