カットマン

先日、久しぶりに駅まで歩きました。会社に行かなくなってから、朝駅まで歩くのは久しぶりです。駅前は開発の予定があって、道や建物が少しずつ変わっていましたが、変わらない風景もありました。そんな中、とても懐かしく思った人を見つけました。あるマンションの1Fに小さな美容室を構える美容師さんです。


その美容室は本当に小さく、最低限の設備だけが揃えられていて、髪を切るスペースも一人分しかありません。でも毎日その道を歩いていて気がついたのですが、その美容室には必ずお客さんがいて、その美容師さんはいつもそこで髪を切っていました。彼はそんなちっぽけなパッとしない美容室で一人働いていましたが、スラリと伸びた痩せ型の体型に端正な顔立ちをしていて、何度見てもその美容室にしっくりと来ないような感じがしていました。


気になった僕は、一度その美容室に行ってみることにしました。少し緊張しながら直接美容室に行くと、やっぱりそこにはお客さんがいました。


「髪を切りたいんですけど。」
「今日?今日はもうこの後予約でいっぱいなんです。」


僕は電話番号を教えてもらい、後日髪を切ってもらえることになりました。椅子に座ってカバーをかぶせると、彼は言いました。


「ドイツ軍のヘルメットのような感じにしたらどうでしょうか。」
「え?」


僕はよくわかりませんでしたが、一度思うようにやってもらおうと思い、その通り切ってもらいました。完成した自分の頭を見て特に斬新とは思わなかったけれど、僕は髪を切って満足しました。


しかしこの後、ますます僕は彼がただ者ではないことを疑わずにはいられませんでした。そうです。彼がただ者なはずはありません。


実は彼は、かつては泣く子も黙るカリスマ美容師だった。いや、カリスマ美容師なんて言葉で簡単に片付けられるような代物ではない。幼い頃から神童と呼ばれ、見る見る頭角を現し日本のトップに立つと、中学卒業と同時にヨーロッパに渡り、数々の栄光を手に入れた。


ヨーロッパの富豪からのオファーが相次ぎ、彼のために自家用飛行機で髪を切りにくる者がいたばかりではなく、彼のためにサミットを一日早く切り上げたファーストレディーもいたのだとか。彼のハサミさばきは当時神の手と言われ、人々の憧れだった。


しかし名画や芸術には悲劇がつきまとう。


彼の神の手を手に入れるため、富豪たちは巨額の資産をつぎ込むことを惜しまなかった。彼は一部の人間だけの物、まさに一枚の絵のように扱われるようになった。大きな組織の中に組み込まれ自由を奪われた白鳥。彼は確かに多くの富と名声を築き上げたが、いつしか自分の置かれているこの状況が、自分の求めるものでないことに気付く。


しかし彼はもう既に抜き差しならない状況に陥っていた。実態の見えない、大きく、暗く、濃い霧のような組織が彼を取り巻く。自分は今どこにいるのか、この先どこへ向かっていくのか、自分とは何なのか…。いつしか彼はアルコールと薬にまみれ、震える指先で握るハサミにかつての神の姿はなかった。


これではいけない。もうここから抜け出すのだ。


組織に歯向かうと、もうこの世界で生きていけないのはわかっている。でも彼は敢えてその道を選んだ。彼は忽然と姿を消した。


そして彼は気がつくと日本に戻っていた。もうハサミを握ることはない。当てもなくさまよう日々。彼はその日も、生気のない目をして街の公園のベンチに座っていた。すると、公園に子供たちがやってきた。


「昨日散髪したんだけど、気に入らないんだよな。」
「俺も。お母さんに連れて行かれる散髪屋ってすごくダサいからやだよな。」


彼はその声を聞き顔を上げた。子供たちの髪が見える。彼は徐に立ち上がり、子供たちの方へ近づいた。


「ちょっと貸してみな。」


彼は子供たちのランドセルから授業で使うハサミを取り出すと、子供をベンチに座らせ、髪を切り始めた。見事な手さばきで髪を切り終えると、子供の顔に笑顔が溢れていた。


「おじさん、すごいよ!」
「そうか?でもお母さんには内緒だぞ。」
「なんでなんで?」
「それはその…おじさんは暗闇でしか生きられない狼だからだよ。」


しかしその後も子供たちは彼の前にやってきては、髪を切ってくれとせがんだ。彼はそのたびに内緒だぞと言って髪を切ったが、そのときの彼の目にはかつての輝きが戻っていた。髪を切る喜びとはこういうものなのか。


やがて噂は噂を呼び、彼の元には近所の人たちが集まるようになった。そしていつしか小さい美容室を構えるようになった。その美容室には、人々の笑顔が溢れた。組織を抜けた彼が今、この小さな街で髪を切っていることを知る者はいない。


そんな想像をしながら通勤すると、結構通勤も楽しいものです。