ヒゲ

人間の体には毛が生えています。堂々と人に見せる毛もあれば、見せると失礼にあたる毛、更には自分では見たことのない毛などいろいろあります。


ヒゲも人間の毛の一つですが、現代社会ではあまり日の目を見ていないように思います。ちょっと生えていただけで「無精ヒゲ」なんて言われるし、スーツを着たサラリーマンたちは概ねヒゲを剃って営業に出かけます。


確かに同じ人でもヒゲがあるかないかで印象がすごく変わります。いい意味では「男らしい」なんて言われることもありますが、「怖い」とか「老けてみえる」とかマイナス要素の方が多いような気がします。でも男の人にヒゲが生えるのは、生物学的にそれなりに意味があるからであり、日本を離れると違った事情も見えてきます。


僕の父親はキューバでしばらく単身赴任をしていました。普通のサラリーマンだった僕の父親ですが、帰ってきたときは見事にヒゲを蓄えていたそうです。向こうでは、男がヒゲを生やすのは当然で、逆にヒゲを生やしていないと子供扱いされるんだとか。父親は家でもよく鏡を見て手入れしていたらしいですが、単身赴任から帰国して、上司に剃れと言われたそうです。剃らずに会社に行ったのが僕の父親らしいですが、まあ国によっても事情は違うようです。


ということで、日本で暮らす僕は気がつけばヒゲを剃り続けてきました。たまに旅行とか休みのときは剃らないときもありますが、せいぜい1週間そこらです。僕は前から疑問に思っていました。


ヒゲはどこまで伸びるのだろう。


僕の知っている人間の毛は、大体、ある長さで止まります。まゆ毛とかまつ毛とか代表的です。普通、哺乳類の毛って長さが決まっているもので、赤道近くに住むものは短めですが、例えばホッキョクグマなんて長めで密度も高いです。でももちろん寒いからって伸び放題だったら泳ぎにくくなってアザラシを捕れなくなるから、長さというのはやっぱりある程度の長さで止まるんだと思います。例外的なのは髪の毛で、これもどこかで止まるんじゃないかと思ったりもしますが、相当長く伸びるので検証は困難でした。


そんな中、僕はしばらく会社に行かなくてもいいという状況に陥りました。一見何もできなさそうなこの状況。でもこの状況は、会社に行っているときにはできないことができる状況でもあるのです。


ということで僕はヒゲを伸ばし始めました。


反対の声もありましたが、まず思うことはとても楽だということです。ヒゲを剃るというのは、それ自体が面倒なだけでなく危険が伴います。メイクを失敗してもやり直す手がありますが、朝出血してしまうとそれを修復してから会社に行くことは不可能。それがないだけでもかなり楽です。


でも今までには気付かなかった意外な面もありました。僕はとにかく伸ばすことを考えていたのですが、口の上に生えているヒゲは、割と早い段階で伸びが止まると思っていました。だってそうじゃないと物を食べるときに不便じゃないですか。まゆ毛が伸びすぎたら前が見にくくなるのと同じです。しかし違いました。口ヒゲは止まることなく伸び続け、やがて口に入るようになりました。


よく女の子の長い髪の毛が口に入ってしまうのを目にしますが、それのヒゲ版です。たまたまそのとき、ポアンカレ予想を解いた後謎の失踪を遂げたというグレゴリ・ペレリマンの特集を見ていたのですが、よく見たら彼なんて口がどこにあるのかわからないくらいヒゲが生えてて、さながらゴン太君のような状態でした。


口ヒゲは都合のいいところで止まらないらしいことがわかりました。


このため、ご飯を食べるときに物がヒゲにくっつくだけでなく、お茶を飲むだけでヒゲが濡れていちいち拭かないといけないし、衛生的にもよくないなと思いました。そうこうしている内に新たな問題にもぶつかりました。


面積的に広い部分を占めるアゴヒゲが伸びるに従い、お風呂に入った後、ヒゲを乾かさないといけなくなりました。これは予想外でした。まさかヒゲを乾かすことになるなんて…。もともと髪の毛をドライヤーで乾かすのとか面倒に思う方なので、これは盲点でした。


更に、僕は歯を磨くときに泡が口の外に出るのですが、歯磨き粉の泡がヒゲにつくとシャンプーをした髪の毛状態になり、洗い流さなければならなくなりました。もちろんその後は乾かす必要があります。そしてヒゲは止まることなく、髪の毛と同程度のスピードで伸び続けました。


ということで、僕はヒゲをハサミで切りました。とても楽になりました。


結論:ヒゲなんて生えなきゃいいのに。