子供の名前

ある会社が、恒例の今年生まれた赤ちゃんの名前調査をしたそうです。1位は男子が「大翔」、女子は「陽菜」と発表されてました。僕はしばし考えた後、「だいしょう」と「はるな」だと推測しました。でも正解は「ひろと」と「ひな」でした。


まあ僕の推測のレベルは置いといて…どちらにしても世の中は、昔は比較的少なかった問題に困らされることになるような気がします。つまり、


名前が書いてあってもそれを読むことができない。


そもそも、文字というのは何のためにあるのかと考えると、いろんな物事を記述して伝えるため。あるときは一時的に使うメモかもしれないし、あるときは歴史に残る書物かもしれません。だから、文字というのはできるだけ簡潔で多くの人に読みやすいものがその存在意義にかなっています。だけど特にこの日本という国は変わっています。


まず文字が3つあります。漢字、カタカナ、ひらがな。もともとは文字のなかった日本に漢字が輸入されました。しかし漢字は文字自体が意味を持つため、多くの種類の文字を必要とします。中国人と性質の違う日本人はいまいち不便に思ったようで、漢字を改良してカタカナとひらがなを開発しました。いかにも日本人、既存のものを使いやすくするのは昔からお手の物です。


ですが改良したのにもかかわらず、漢字は漢字で使用されます。ただし使い勝手の悪い漢字に複数の読み方を与えて。結果3種類の文字をミックスした文章が出来上がります。このように日本人は言葉と文字の1対1の対応を放棄したのです。


言葉を聞いてもそれを記述できない、文字を見てもそれを発音できない。


漢字の文字自体に意味があるというのは文字の元祖である象形文字などと同じですが、タイプとしては古いものということになるでしょうか。どんなものでも徐々に利便性を求めて改良されるもので、例えば a や b に意味はありません。漢字に種類が多いため、ルネッサンスのときに活版印刷ができなかった中国が西洋諸国に遅れをとった過去もあります。


ただ、もしそれが日本人にとって不便であるなら、日本人の性質からしてとっくに改良されているはずです。ある意味厄介なことに、日本人はそういったことにある程度「趣」を感じてしまう傾向にあるようです。文字自体が文化となり、書道も発展。小学校のときは漢字テストが行われ、「読める」ことが賞賛された記憶があります。ローマ字を生んだイタリアでは漢字テスト的なものはあるんでしょうか。

メバル scorpena (スコルペーナ)
アジ suro (スーロ)
イワシ sarda (サルダ)
カサゴ scorfano (スコルファノ)
メカジキ pesce spada (ペェシェ スパーダ)
ウナギ anguilla (アングィーラ)
タコ polpo (ポルポ)


イタリア語は日本語の発音に近いと言われるのでカタカナ表記で結構近いと思いますが、これで読み方のテストをしたらみんな100点でしょう…というか文字が1種類しかないからある文字をどう読むかとかいう概念自体がなさそうです。polpo の読み方は polpo…。


それでもローマ字ではなく漢字を選択した日本人は、文字としての能力を極めるのではなく、遊びも求めたということかもしれません。長所・短所があり、意見も賛否両論でしょうが、個人的にはシンプルに文字としての能力だけに特化するのが好みです。大日本帝国憲法は読めないのにシェイクスピアは読めるなんて、ねぇ。


以前英語圏の人に、Tom とか Jane とかって意味あるの?って聞いたことがありますが、それ自体にはないと言われました。子供の名前に願いを込めていろんな意味を与える日本人からするとビックリです。でも名前の最も重要な役割はID機能ですから、シンプルにその役割を果たしているとも言えます。他にも、中国では苗字も名前も漢字1文字で表すと同姓同名が増えすぎるから、せめて名前は2文字にしてほしいと行政当局が呼びかけていたり、韓国では数種類の苗字が国民の大半を占めるから苗字だけではID機能が果たせないとか、日本とは違うそれぞれの事情もあるようです。


なんにせよ、読めない名前がどんどん生まれる日本にこれからも住むと思うので、なんとか対応していけるよう頑張らねば…。とりあえず、大阪府知事選で「橋本」と書いた票が橋下候補の票になるのかが気になります。