サーカディアンリズムの研究

そう言えば僕の卒業研究の題材はハチでした。すっかり忘れてました。


僕はその年、サーカディアンリズムの研究をすることになりました。指導教官がそう決めただけで僕の希望ではないですが、特に異論はありませんでした。そしてその先生はハチの専門家だったっぽく、ハチを題材にすることになりました。


まず先生はビニールハウスに案内してくれました。まだ季節は春で、題材にするハチ(種類は忘れたが外国のハチ)には気温が低すぎるのでここで飼うとのことでした。そして研究室にある冷蔵庫のように大きな入れ物の中で一日のうちの明るい時間の長さをコントロールしつつ、そのビニールハウスにハチを必要なだけ持ってきて観察する計画です。


しかし、冷蔵庫のように大きな入れ物の中ではハチは居心地が悪いようで、持ってくるハチ持ってくるハチ、すぐに死んでしまいました。僕は先生に教えてもらったスペシャブレンドのエサを一生懸命やりましたがダメでした。そうこうするうちにビニールハウスのハチも、ビニールハウスの居心地が悪いのか死んだりいなくなったりしてしまいました。


ビニールハウス作戦は断念することになりました。


次に先生が持ってきたのは養蜂用のミツバチの巣箱。この場合、外に普通に置いておけば、ミツバチはどこかの花のところへ飛んで行ったりして勝手に生活するので、その巣箱から必要なだけハチを持っていけばOKです。ミツバチは前のハチより丈夫だったので、割と長生きしました。しかし。


感じがつかめてきて、軌道に乗ろうかとしていたときです。以前は活気に満ち溢れていた巣箱からミツバチの姿があまり見られなくなってきました。おかしいなと思っていたのですが、あるときとんでもない来訪者を目撃してしまいました。


オオスズメバチです。


オレンジと黒の強烈なコントラストのそいつは、ミツバチとは比べ物にならない大きさと迫力でやってきました。そしてミツバチの巣箱に降り立つと、なんと入り口から中へ入って行きました。恐怖すぎます。


テレビなどで、ミツバチが集団でスズメバチを囲んで体温の熱で殺し、巣を防衛するシーンを見たことがある人もいるかもしれませんが、うちのミツバチ君たちは防衛に失敗したようです。数日もするとミツバチを見ることはなくなり、とうとうスズメバチさえいなくなりました。


ある日先生は言いました「巣箱片付けますか」。


僕は先生と二人で巣箱のある場所へ向かい、片付けを始めました。もともと養蜂用なので、巣箱はハチミツがとれやすいような構造になっています。中を掃除しようと、とりあえず巣箱を開けたそのとき、至近距離でものすごい羽音がしました。目の前に現れたのは一匹のオオスズメバチでした!まだいたのです!!!


ヤバイ!!!


そう思って周りを見たとき、僕はなぜか一人でした。おかしい。僕は先生と二人で作業をしていたはずなのに。まさかと思って振り返ると、先生が全力疾走で逃げて行く姿が見えました。


先生…。


指導教官が教え子を完全に放置して逃走する…それもすごいですが、僕は人が本気で何かから逃げるのをその時初めて見ました。「逃げる」という言葉や行為は日常よくあることですが、実際に全力で何も考えずに逃げている姿というのはなかなかお目にかかれません。オオスズメバチは僕に危害を加えることはありませんでしたが、僕はとても貴重な体験をしたのだなあと思いました。今でもあの後ろ姿は脳裏に焼きついています。


そんな風にして1年が過ぎ、僕はその研究室を去りました。


時は流れ、僕はもうその頃のことを忘れていました。いや、忘れようとしていたのかもしれません。でも今年の春、ミツバチが町中の交差点の信号機を覆ってニュースになったとき、専門家としてコメントする先生を久しぶりに見ることがありました。元気そうでした。そして今思います。


先生
先生はきっとスズメバチの関心を自分に引き付け、僕を守ろうとしてくれたんですよね。ね、先生、そうですよね。先生…。