ラジオ

入院に際して、病院には個室もありますが、多くの人は相部屋になります。個室に入るのは相部屋に入れない人か、相部屋が嫌な人。前者は重病人で、例えば薬の副作用で免疫力が落ちて、他の人との接触をなるべく減らさないといけない人とか。僕もしばらく入ってました。後者は保険適用外の別料金を払ってもいいから相部屋は嫌だという人。もちろん重病人が優先だから空きがないといけません。僕は結構な値段の料金を払うほどお金はないのでそれはできませんが、個室より相部屋の方が気晴らしになって寂しくないからいいという人も多いようです。


でもいくら気晴らしだからって、まったくの他人と24時間一緒にいるわけです。そこには気遣いと我慢が共存し、当然トラブルもしばしば起こるわけで、みんながなるべく快適にすごせるよう、病院にはルールがあります。消灯時間になったらうるさくせずに寝ましょうとか、お見舞いは面会時間を守って少人数でとか。でもなかなかみんながみんな、守ってくれるわけではありません。ルールを守らない人がいるのは、病院でも会社でも学校でもどこでも同じなのです。


僕が悩まされたのはラジオの音です。


何度かありました。あるときは向かいの部屋で毎日ラジオが鳴らされ、それが僕の部屋まで聞こえてきました。その部屋に行ったら相当大きい音だったんじゃないかと思うんですが、同じ部屋の人はなんとも思わなかったのかと今でも不思議です。とにかく毎朝起床とともに誰かがラジオを鳴らしていました。


僕はすぐに耐えられなくなりました。どうやって解決すべきだろうか。僕は考えました。その部屋に行って、イヤホンで聞いてくれと言うのが一番早いのですが、患者同士で険悪になるのも嫌だし、そもそもルールというのは患者じゃなくて病院側が徹底させるべきだという考えに至り、看護師さんにお願いしました。看護師さんも言うのは嫌だっただろうけど、お陰でラジオは鳴らなくなりました。


この前入院したときは、同じ部屋のおじいさんがラジオを音を出して聞き始めました。僕はもう煩わしいと思って、直接その人に言いました。もちろん穏やかに。


「イヤホンないですか?」


その人は耳が悪いのか最初はうまく聞き取れないようでしたが、程なく理解し、テレビのならあるがラジオのはないと答えました。だったら聞くのを止めるのが筋だろと思い、それをどのように伝えるか考えました。だって、そういう答えをするということは全然悪いと思ってないということだから、うまくしないとわかってもらえないでしょうから。


考えてると、そのラジオにはイヤホンが内臓されていることに気づきました。あるじゃん!と思いましたが、だいぶボロボロで中の導線が見えてました。たまたま入ってきた看護師さんが「これ使うの危ないわ」というので使うのは断念せざるをえませんでした。


でも看護師さんが来たから、ちゃんと言ってもらえると思って安心したのですが、看護師さんは「ルールを守って下さい」とは言いませんでした。見てみぬ振り。更に追い討ちをかけるようにその人は言いました。


「では私は失礼して。」


彼はラジオをつけたまま寝転んでしまいました。あまり状態がよくないみたいで、何の疾患か知らないけど看護師さんを呼ばないとベッドから離れるのも危険な状態なので、僕もそれ以上負担をかけづらく、とても困りました。でもラジオを聴きたいという欲望はあるようです。


僕は苛立ちを抑えるため、しばし病室を出て面会室にいました。程なく食事が運ばれてきたので部屋に戻ると、じいさんは言いました。


売店に売ってるんとちゃうか?」


どういう意味で言ってるのか僕はよくわかりませんでしたが、僕は、


「でもラジオに端子がないですもんね。」


と答えました。僕は食事が終わるとまた部屋を出ました。


ルールの中には、別に気にならないものもあります。例えば、消灯時間を過ぎてもテレビを見る人がいます。イヤホンを使っても、テレビの発する光というのは結構強くて、バラエティ番組なんかだと色的にも過激です。でも僕はそれは気になりません。普通に寝られます。同じ部屋の人が嫌がらなければ何をしてもよいというわけではないですが、僕はなぜラジオの音はダメなのでしょう。面会室の椅子に座って考えてると、昔の思い出が蘇りました。


僕は父親を早くになくしたので、母親は働きに出ていました。まだ小さかったので、日中は近くのいとこの家に預かってもらってました。いとこの家は、両親と2人姉妹の4人家族。日中はおじさんは仕事に行ってるので、特に平日はおばさんが面倒を見てくれました。


おばさんはとてもよくしてくれました。いとこと同じように扱ってくれたし、いろんなことを教えてくれました。土日も母親が働いてることがあったので、そのときはおじさんにもお世話になりました。おじさんは子供好きで、疲れているのにいっぱい遊んでくれました。本当に感謝してます。


でも、やっぱり子供にとって、親とおじさんおばさんとでは違うのです。母親が仕事を終えて迎えに来てくれるのが楽しみだったし、母親が休みだととても嬉しかったのを覚えています。子供は親と一緒にいるのが一番なんですね。


で、いとこのおばさんも仕事を持っていました。家でミシンを使ってできる内職です。おばさんが仕事をしてるときは邪魔してはいけません。僕にとってはとても寂しい時間だったのかもしれません。そしてそのとき、おばさんはいつもラジオをつけて仕事をしていました。そんなこと今まで忘れていたけど、もしかしたらパブロフの犬のように頭の中の回路が出来てしまってるのかも…。


そしてまた部屋に戻る用事ができました。部屋に戻るとじいさんはいませんでした。そして看護師さんが何やらじいさんの荷物を運んでいました。じいさんはナースステーションの近くの部屋に移るとのこと。結果的に思わぬ形で解決しました。


ちなみに後で気づきましたが、このじいさん、僕がイヤホンを欲しがってると思ったのではないでしょうか…。ま、どちらにしてもじいさんに音を出してラジオを聴くことがなぜ悪いか、なぜそういうルールがあるかをわからせる自信は僕にはありませんでした。


どこにいても、人と一緒に何かをするというのは難しいものです。